君はプロ野球選手になれるか
下鴨神社の界隈を根城にしていると言われる、樋口師匠は大変ありがたいお言葉を残している。
「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々が持つ可能性ではなく、我々が持つ不可能性である。」ー森見登美彦著 四畳半神話大系より引用
これはとても良い言葉であると思ったので紹介する。
人はよく、自分の可能性を信じろ。とか、人には無限の可能性があるんだ。とか言う。
しかしこの言葉は、その考えに対して警鐘を鳴らしている。
あなたはプロ野球選手になれるか。宇宙飛行士になれるか。考古学者になれるか。一線で活躍するアイドルになれるか。
これらの事は、なれないとも言いきれないだろう。可能性としては全くのゼロではない。つまり可能性がある、ということになる。
無限の可能性は、確かに実在すると言える。
しかしここで問題なのはその実現可能性である。目標の実現可能性が著しく低いにも関わらず、無限の可能性などという言葉を盲信した結果として人は苦悩を抱えてしまうという。
わかりやすい例が受験である。例えば偏差値40のAくんが東京大学を目指したとき、確かにAくんの合格が実現する可能性はゼロではないが、かなりの高確率で挫折を味わうことになるだろう。どうして自分の努力が実らなかったのだと、苦悩するだろう。
そうならないために樋口師匠は、自分の可能性ではく不可能性を認めよとおっしゃる。
結局、自分は急に自分以外にはなれない。当てにならぬ可能性などではなく、自分にとって不可能なことを認識し、現状の自分を受け入れろということだと思う。
言い換えれば、身の丈を知るということだ。
今日はあまりにユーモアがなかった故にここまで読んだ人などいてたまるか、と思う。専門は英文学なので日本語がおかしいのはご愛嬌である。最後に、本文は自分なりの解釈であるのでクレームは受け付けていない。