英文学徒が綴ります。

日々アウトプット!!ただ文章が書きたい男のブログ

相棒が決まった

スクーターでどこまで行けるだろうか。


スクーター、特に50ccのいわゆる原付は大変鈍足な乗り物である。法定速度は30kmかつ二段階右折の義務があり、これを厳守した場合流れの早い幹線道路を走ることはほぼ不可能と行っても良い。


しかしスクーターというのは、その分大変気軽に乗れる乗り物でもある。思い立ったときにいつでもすぐ乗れる。燃費がよくガソリン代もとても安い。


僕はこのスクーターで色々な場所に行きたい。川を越え山を越え谷を越えて、風が潮の匂いを運ぶ海岸。鬱蒼とした林の中。そして空を走るかのように山の上を走りたい。


電車とも飛行機とも違う、原付。原付なら線路がなくても滑走路がなくてもそこに道さえあれば行けない場所はない。


読者諸君には大変どうでもいい話であるが、購入するバイクの目処が立った。

今回縁あって乗ることになったのはホンダのスクーピーという50ccスクーターである。それも20年前に発売された初期型というから驚きである。

そのスクーピーは元々母親が乗っていた物で、実家で放置されていた所を直してもらい10年振りくらいに実働まで持っていくという。

本当は新車を買う予定だったのだか、新車価格の4分の1の値段で治してもらえるということで、そう決めた。余ったお金は小型2輪免許の取得や原付2種の購入費用にでもするかもしれないし、全部推しに貢ぐかもしれない。

恐怖

原付の講習を終えて、もういつでも原動機付自転車を使えるようになったんだけど。

 

公道に出るのが怖すぎる。

 

免許センターの講習用の原付を二時間くらい運転したんだけど、

 

曲がるのとか、スピードの感覚とか、車線変更時の後方確認とか

 

考えることが多すぎて、公道に出れる気がしない。

 

公道に出たら、多分香車みたいに真っ直ぐしか進めないだろうな。

 

曲がるのとか怖いしさ。

 

宅配のバイトがもうすぐ始まるんだけど

 

先輩のバイクについていけるか心配。

 

先輩の背中を追う(なんかかっこいいな)のに夢中になって

 

信号無視しないように気をつけなくてはいけない。

 

車は自分を殺しにくる鉄のマシーンだと思え。

 

車には近づかないように、事故のないようにがんばります。

 

文字数少ないな。

みんな好きな時代ってある?

 

 芥川龍之介志賀直哉江戸川乱歩永井荷風宮沢賢治...。名前を聞いただけでも高揚感を感じるような名前が並んでいる。ここに挙げた名前はいずれも大正を代表する文豪たちである。

 

大正といえば、僅か15年の、長さでいえば大変短い時代である。しかし、激動の15年であったことは言うまでもないだろう。藩閥政治を打ち破らんとする第一次護憲運動から始まり、政党政治の成立、第一次世界大戦、植民地の反日運動、関東大震災普通選挙法など、挙げればキリが無いほど多くの出来事があった時代である。

 

文化的にも様々なことがあった。モダンガールやバンカラファッション、レコードの普及、和洋折衷の建築やラジオ放送など、明治時代に入ってきた西洋の文化や価値観を咀嚼し旧来のものと合わさった新たな文化が生まれた。

 

僕はこの大正という時代が好きである。新しいものが身近になり、生活に溶け込んでゆく時代。しかし豊かになってゆくと同時に、災害や戦争が暗い影を落としてゆく。和と洋が共存し、明るいもの(新たな文化や豊かになる生活)と暗いもの(軍靴の音、帝国主義、恐慌)が共存する時代。

 

今の時代からしたら生活水準が低いのは言うまでもない。しかし、人々の心は今以上に豊かだったに違いないと思う。今よりも自由が保障されぬ時代だからこそ、人々は自由を求め自由に憧れ、それを勝ち取らんと行動を起こした。災害、戦争、恐慌の中でも必死に生きようとした。

 

生命の危機から限りなく遠ざかり、経済的に豊かであるが故に働くことなく食べて行けてしまうようなこの国この時代の人間からすると、彼ら彼女らの生きた時代が羨ましくてしょうがない。そんな贅沢を言うなという批判は覚悟の上である。正直言って、非日常は羨ましい。

 

毎回毎回自分の文章力の無さには絶望させられる。まず、文章を書くまえに大体の仮組みを考えたらいいのだろうが、いささか面倒なのだ。

生きることは演劇に過ぎない

人生においてその人に降りかかること、出会う人、話すこと、行うこと、考えることは生まれた瞬間...もっといえば宇宙の誕生から全て決まっていたのではないか。そして僕らの人生とは、知らず知らずのうちにその筋書きに沿って完璧な演劇を演じているに過ぎないのではないか。そんなことを誰もが1度は考えたことがあるだろう。

僕もよくこのような非生産的なことを考え、コロコロと意見が変わるのだが、今は概ね上記の内容を認めている状況である。

その根拠は、未来(または、先のこと)の存在である。人が生きるというのは、人が生まれてから死ぬまでのことを指す。生きている状態の人には、死ぬまでの未来が確実に存在している。

例えば、現在20歳で60歳に亡くなる人がいるとする。その人には20歳の時点で40年間の未来というものがある。将来は会社員になるのか、億万長者になるのか、はたまた浮浪者になるのか、そしていつ死ぬのかはその時点ではわかりかねるが、少なくともその人には20歳の時点で40年間未来が存在しているのだ。

今、未来が存在しているということ。それはどんな未来かはわからないが、もうあるのだから、未来は決まっていると言えないだろうか。それはいわば、生きることとは見えない台本に書かれた通りに劇を演じることとも言える。

...頭の中での思考を文章に書き落とすことの難しさを今まざまざと感じている。上手く書けた気がまるでしない。しかしこんな事は別に理解しなくても何も損はしないと思う。だって未来は誰にもわからないから。

音楽への向き合い方

皆さんが知るわけないのだが、僕は小中高おおよそ7~8年音楽を部活動としてやってきた。形態としてはブラスバンド吹奏楽である。

 

この吹奏楽、とりわけ部活としての吹奏楽は演奏する曲のジャンルがあまりにも多岐にわたるあまり、それぞれのジャンルに対しての理解が中途半端になってしまいがちである。(例えばクラシック、マーチ、ポップス、ロック、ジャズ、セクションごとのアンサンブルなど。)

 

例に漏れず僕も吹奏楽で多くのジャンルを演奏してきた。良い風に考えれば多くのジャンルに手をつけることで、自分のお気に入りのジャンルを見つけられるということである。しかしさまざまなジャンルを齧ったはいいが、どれも中途半端になっていることは否めない。多くの吹奏楽経験者がそういう状態になっているのではないかと思う。

 

このままではいけない気がした。かといって全てのジャンルを網羅するのは容易なことではない。なので、僕が好きな曲が多く分類されているジャンルに特化して聴いてみようと考えた。

 

そのジャンルとは、邦楽である。いや、広すぎるだろと思われたかもしれない。僕もできることならもっと狭い範囲に限定して(ジャンルを限定して)聴きたいです。しかしながら最近の音楽は、ジャンル分けという作業をするのが困難であるらしい。邦楽のロックに限っても産業ロックだのオルタナティブロックだのミクスチャーロックだの、もう何が何だかわからない。とりあえず邦楽という括りなら、日本初の音楽という明確な区切りができるということで、邦楽とした。

 

また、邦楽というか音楽を理解する上で欠かせない音楽理論やコード理論をあろうことか僕は理解していないので、(小中高何をやっていたんだ)その理解も必要不可欠である。

 

というわけで、音楽への向き合い方を新たに決意したのでここら辺で終わろうと思う。もしオススメのエモーショナルな音楽、バンドがあればぜひメンションして僕に送りつけて欲しい。

ニートやめたい

僕は、大学生である。しかしその実態は学問を修め、自らを人間として高めてゆくという本来の大学生の姿とは乖離している。言葉を選ばなければニートである。

 

 

授業は確かにあるが、オンラインだと講義形式の授業はどうしても耳から入って逆の耳から抜けていってしまうのが現状だ。お寺でお坊さんのお経を聞いているのと何ら変わりはない。そういう大学生は多いのではないだろうか。(というより、そうであってくれ)

 

 

そんな没落大学生がそろそろ意識を変えて生活をしなければいけないと感じている理由は、かなり多いので、この記事では主な二つの理由を紹介する。

 

 

一つは、大学の授業も進んできたということで、いよいよテストというものが現実味を帯びてきたからである。テストで問われることは簡単で、普段の講義の理解度である。現状、僕はどの講義にも大した理解はない。よって、このまま時の流れに任せて惰性にまみれた日々を過ごしていれば落単再履修の道しかない。まだ一年生だから取り返しはつくかもしれないが、留年して親に叱られるのも嫌なので、そろそろ勉強をしなくてはいけないと思っている。

 

 

二つ目の理由は、今流行りのドラマ「ドラゴン桜2」の影響である。ドラマ?たかがドラマの影響ごときで勉強を頑張れるのか?そう思う方も多いであろう。しかしながら、僕は高校受験時代は「揉み消して冬」という、登場人物の大半が東大卒の設定のドラマを見てモチベを高めた。その結果第一志望に合格することができた。(ついでに、波瑠さんに恋をした。可愛い...)

ドラゴン桜を見ていると、ひたむきに努力することの尊さを実感する。ドラマながら、登場人物が夜遅くまで勉強している描写には心を打たれた。おそらく、僕が人生で一番嫌なことから逃げずに戦ったのが高校受験の時であった。大学受験の後悔を糧にして、あの時の努力を超える努力をしたい。というのが大学生活でも最も重要な目標の一つである。

 

 

と言うわけで、今日は野球がないのでちゃんと勉強しようと思う。堕落した大学生というのは小説の中にだけいれば良い。なんのために最高学府の門を叩いたのかを今一度考え、放置したいくつかの課題たちの弔い合戦に出ようと思う。そして将来的にはお国のために役立つ人材になることをここに誓う。

 

最後の一文は嘘である。

ストレスと幸せ

歳をとる度にストレスが増している気がする。

高校2年生くらいまでは、病みや鬱といったこととは全くもって無縁の生活をしてきた。日々生きていくなかでそのようなストレスを抱えることは少なかった。

しかし、コロナが流行りだした頃から精神が不安定になることが多くなった。もちろん、受験生という立場からくるストレスがかなり大きかった。また、コロナ禍において孤独な時間が増え、やはり人に会わないと人間というものは精神的に不安定に陥りやすいので、そのせいもあっただろう。当時は彼女のことを考えて気を紛らわしていた気がする。

最近も受験期に似た感情になる。なんとなく楽しかった昔を思い出して、自堕落的な現状を嘆くのである。こんなはずじゃなかった。数々の分岐点の先に今の自分があることから目を背けてはいけないのは分かっている。だがしかし、自分という存在の無力さはいかんせん見るに堪えない。

加えて東京では2度目の緊急事態宣言である。やはりこんな中で友人に遊びのお誘いを持ちかけて幻滅でもされようものなら困ってしまうので、中々自分から誰かと会ったりはしていない。故に、精神の拠り所が無い状況なのだ。

そんな中で自分がなぜ生きているのかというと、それはささやかな幸せのためである。

人生、辛いことや苦しいことの方が圧倒的に多い。これは神様の設計ミスに他ならない。長い間努力を重ねても、幸せな瞬間というのは一瞬で終わってしまうものだ。

だからこそ、幸せとは幸せなのではないか。

一日中部活を頑張って、帰り道にコンビニで食べたおでんはこの上なくおいしかった。夏、講習を終えて学校帰りに食べたアイスはおいしかった。一夏をかけて臨んだコンクール、発表のあの瞬間は人生で他の何にも変え難い幸せの瞬間であった。

無論、明らかに、幸せに対して苦労やストレスの総量が大きすぎる。しかしまた、苦労やストレスの量に比例して幸せも大きくなるのも事実だと思う。

僕は、生きる上での最大の目的は、幸福を得ることであると考えている。

我々生き物は、生まれた瞬間から死を内包している。どれだけ財を成しても、それは死んでしまえばなんの意味もない。世界を認識する自分という存在がいなくなると、それらはたちまち消滅してまう。つまり生き物にとって富、地位、名声、権力とは目的ではなく、せいぜい幸福を得るための手段にしかなり得ない。

しかし幸福は違う。幸福とは貯めるものでも成すものでもなく、その時々に感じられるものである。だから、幸福だけは死という概念から切り離して考えられる。つまり幸福を得ることは、死が約束された生き物に与えられた数少ない生きる上での目的なのだと考える。

さて、哲学者まがいの文章はこれくらいにしておこう。自分でも何が書きたいのかわからないまま書くので、いつも何が書きたいのかハッキリしない文章になってしまうのは問題だ。恐らく論理的破綻している箇所も多いだろうが、それは僕の思考の浅さゆえであるので生暖かい目で見守って欲しい。