英文学徒が綴ります。

日々アウトプット!!ただ文章が書きたい男のブログ

ストレスと幸せ

歳をとる度にストレスが増している気がする。

高校2年生くらいまでは、病みや鬱といったこととは全くもって無縁の生活をしてきた。日々生きていくなかでそのようなストレスを抱えることは少なかった。

しかし、コロナが流行りだした頃から精神が不安定になることが多くなった。もちろん、受験生という立場からくるストレスがかなり大きかった。また、コロナ禍において孤独な時間が増え、やはり人に会わないと人間というものは精神的に不安定に陥りやすいので、そのせいもあっただろう。当時は彼女のことを考えて気を紛らわしていた気がする。

最近も受験期に似た感情になる。なんとなく楽しかった昔を思い出して、自堕落的な現状を嘆くのである。こんなはずじゃなかった。数々の分岐点の先に今の自分があることから目を背けてはいけないのは分かっている。だがしかし、自分という存在の無力さはいかんせん見るに堪えない。

加えて東京では2度目の緊急事態宣言である。やはりこんな中で友人に遊びのお誘いを持ちかけて幻滅でもされようものなら困ってしまうので、中々自分から誰かと会ったりはしていない。故に、精神の拠り所が無い状況なのだ。

そんな中で自分がなぜ生きているのかというと、それはささやかな幸せのためである。

人生、辛いことや苦しいことの方が圧倒的に多い。これは神様の設計ミスに他ならない。長い間努力を重ねても、幸せな瞬間というのは一瞬で終わってしまうものだ。

だからこそ、幸せとは幸せなのではないか。

一日中部活を頑張って、帰り道にコンビニで食べたおでんはこの上なくおいしかった。夏、講習を終えて学校帰りに食べたアイスはおいしかった。一夏をかけて臨んだコンクール、発表のあの瞬間は人生で他の何にも変え難い幸せの瞬間であった。

無論、明らかに、幸せに対して苦労やストレスの総量が大きすぎる。しかしまた、苦労やストレスの量に比例して幸せも大きくなるのも事実だと思う。

僕は、生きる上での最大の目的は、幸福を得ることであると考えている。

我々生き物は、生まれた瞬間から死を内包している。どれだけ財を成しても、それは死んでしまえばなんの意味もない。世界を認識する自分という存在がいなくなると、それらはたちまち消滅してまう。つまり生き物にとって富、地位、名声、権力とは目的ではなく、せいぜい幸福を得るための手段にしかなり得ない。

しかし幸福は違う。幸福とは貯めるものでも成すものでもなく、その時々に感じられるものである。だから、幸福だけは死という概念から切り離して考えられる。つまり幸福を得ることは、死が約束された生き物に与えられた数少ない生きる上での目的なのだと考える。

さて、哲学者まがいの文章はこれくらいにしておこう。自分でも何が書きたいのかわからないまま書くので、いつも何が書きたいのかハッキリしない文章になってしまうのは問題だ。恐らく論理的破綻している箇所も多いだろうが、それは僕の思考の浅さゆえであるので生暖かい目で見守って欲しい。