気楽だったあの頃
ふと、自分が小学生だった頃を思い出したくなる時がある。読者諸君もそういったことは良くあるのではないか。
あの頃は、今に比べれば思慮は浅かっただろう。知識も教養もなければ、精神的にも未熟であったことは自明である。
しかし、何事にも囚われていなかった気がする。
世間体も、親の期待も、社会情勢も何もかも知らなかった。あの時あったのは、ひたすらに遊び心だけだった。なんと幸せなことか。
とにかく今思い出せるのは楽しかった記憶、遊びの記憶、そして雀の涙ほどのごくごく僅かな勉強の記憶だけだ。授業など文房具を弄んでいた記憶しかない。
休み時間、校庭をリヴィングストンの如く探検し、もはや我々の知らぬ領域は無かった。校庭のことであれば、探検家スタンリーよりも百倍詳しかっただろう。そのノウハウは遺憾無くドロケイに生かされることとなった。
昼休みから午後にかけて大事なのは遊びの約束だ。放課後何時頃に誰かの家に集合する。一軒家よりもマンションが多かった。親に言われるがままにお菓子を持参したものである。お邪魔します、の一言を忘れてはならなかった。
何にも追われていなかった時代。強いていえば宿題には追われていたが。
ところが今は、常に何かに追われ、何かを考えている。小さいものでは大学の課題、大きくなると将来のこと。将来の夢が無い、なんて嘆いていられる時間はもう少ないようだ。
また同時に、あの頃と比べて小さなことに幸せを感じるようになった気がする。これは良い変化なのか、それとも余裕がなくなったことの表れなのか。前者であって欲しいものだ。
季節の変わり目は体調も、精神的にも不安定になりやすい時期だ。くれぐれも自分を労わって欲しい。
旅行、旅の話
僕は旅行が好きだ。まだ陽光も刺さない夜に起きて、前日に纏めた荷物を背負う。忘れ物をしてそうだな、とか戸締りをしたかな、とか色々な事を考えながら車に乗り込み、目的地へと出発する。ETCのバーをくぐれば、高速道路に出る。高架から見下ろす街は、普段とは違うようにも見えた。
僕が旅行で好きな瞬間は、休憩にサービスエリアに立ち寄る時だ。陳列棚にはその土地土地の名産品がずらりと並ぶ。スクリーンに表示された各地の交通情報、フードコートから漂ってくる食べ物のいい匂い、一時の安息を楽しむドライバー達。言葉には言い表せぬ、独特の雰囲気が好きだ。長距離ドライバーにとってはそうではないかもしれないけど、僕にとっては素晴らしい非日常空間なのである。
僕か旅行好きなのは他の誰でもない、両親のお陰だろう。小さい頃からよく色々な場所に連れて行ってもらっていた。関西に住んでいた頃は、車や鉄道が好きだったので京都の梅小路や三重の鈴鹿サーキットにも行った。福井や大阪も訪れたらしい。こっちに来てからは、関東のレジャースポットはあらかた回ったのではないだろうか。水族館、動物園、遊園地、温泉街ととにかく家族で沢山の場所に行った。特に水族館に関しては、関東なら行っていない水族館の方が少ないくらい。(知らんけど)
とは言うものの、実は旅行に行く頻度自体はそこまで高い訳では無い。中学に入ってからは部活が毎日あったので、頻度もかなり下がった。では、どうして旅行好きを名乗れるのか。それは他人よりも旅行を楽しんでいる自信があるからだ。
ただその場所を訪れ、観光するだけでは僕はどこか物足りない。その場所までの移動も含めて楽しむのがコツだと思う。行きの道ではどこかで休憩を挟み、これからの観光のことについてあれこれ考えるのも大事な行程だ。移動中に観光地の歴史について調べるのもまた良し。到着したら、五感をフル稼働させて楽しむ。風景、建物、食事は特に重視する。プロ野球の遠征なら、野球場にだけ行くのではなくて、付近の観光地を訪れたり有名な料理を食べたりするのが良いだろう。帰り道は少し切ない気持ちになる。でも、その切なさも含めて旅の良さだと思う。普段の生活では感じられないから。
全身で見知らぬ土地を感じる旅は、良い。僕はもっと色々な場所へ行きたい。本州もまだ知らない場所だらけだし、北海道や沖縄には足を踏み入れたことすらない。両地域共に興味深い土地である。日本という国に加わったのは比較的最近であり、以前は蝦夷であり琉球であった。先住民の歴史、そして開拓と発展の歴史、戦争の歴史、とても1回の訪問では見切れないだろう。北海道はでっかいどう。大変失礼した。海外にも行きたい。しかし海外に行くには大変なお金がかかるため、入念な準備が必要だろうと考えられる。
話も纏まらなくなってきたので、この辺で切ろうと思う。まだまだ話したいことはあるが、また別の機会に。
ポケモンって草食動物なの?
陸に、海に、空に生息する、この世界の不思議な不思議な生き物。それがポケットモンスター、ちぢめてポケモンである。
小さい頃から親しんできたポケモンという存在であるが、その生態に関していつからか感じていた疑問。ポケモンって草食動物なの?アニメを見る限り、人がポケモンを食すことはあっても、(例えばコイキングの刺身やヤドンのしっぽ、サメハダーのフカヒレなど)ポケモンがポケモンを捕食する描写はほとんど無かった気がする。ということは全てのポケモンは木の実を食べて生存しているのか。しかしポケモンも野生の生き物であるから、捕食と被食の関係があるはずである。もし全てのポケモンが草食なら、自らを捕食する敵がいなくなり、ポケモンは異常なスピードて増殖し、世界中の植物が食べ尽くされることになる。
ということで、調べた。すると大体3つの場合にわけることができそうだ。
1つは、木の実を食べるポケモンである。アニメでもよくある、オレンのみやモモンのみなどを食べていきている。1番イメージしやすいだろう。
2つは、ポケモンを捕食するポケモンである。例えば鳥ポケモン→虫ポケモン、ヤングース→コラッタなどである。正直あまり見たくない。
3つは、意味不明なものを食べるポケモンである。コイルは電気を食べるし、ムウマは生命エネルギー、ベトベターはゴミを食べるらしい。
ご覧のように、ポケモンはこんな具合で生きているようだ。ここでは触れないが、なんだか何も吸収していなさそうなポケモンもいる。
ところで野球垢にURLが貼ってあるのだから、野球の話をしたらどうなのか。という意見は最もである。しかし私は野球に関しては素人なので、それは実は無理難題であったりする。
革新的デート
僕には彼女がいる。僕の彼女は難しい。在り来りなことでは喜んではくれまい。なので今日は、彼女を楽しませるための革新的なデート計画を考えることとした。
革新的デート計画その1、珍しい天丼を食べに行く。どう珍しいかというと、お店が山の頂上にあるのだ。それも場所を知っている人はごく僅かであるという。天丼屋さんを探すのは大変だろうけど、発見の暁には僕と彼女の親睦はより深まること間違えないよね。
革新的デート計画その2、願いを叶えるメダカに会いに行く。そのメダカは淀川のその上流、瀬田川の界隈に姿を見ることができるという。もしそのメダカにお目にかかれたら、彼女には悪いけど、僕は10年以上前に亡くなった両親にもう一度会いたいとお願いする。
革新的デート計画その3、ハイカラな街に行く。その街は活気に溢れ、街ゆく人々は西洋文化を取り入れたハイカラファッションで着飾っているという。問題は、ちょっと遠いことだ。でもそこには石やレンガ造りの荘厳な建物がたくさんあるらしい。ラジオ、とかいうものもあるらしい。百聞は一見にしかず、やはり一度行ってみることとする。
上出来だ。これだけ不思議で面白い計画なら、彼女も喜んでくれるだろう。
君はプロ野球選手になれるか
下鴨神社の界隈を根城にしていると言われる、樋口師匠は大変ありがたいお言葉を残している。
「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々が持つ可能性ではなく、我々が持つ不可能性である。」ー森見登美彦著 四畳半神話大系より引用
これはとても良い言葉であると思ったので紹介する。
人はよく、自分の可能性を信じろ。とか、人には無限の可能性があるんだ。とか言う。
しかしこの言葉は、その考えに対して警鐘を鳴らしている。
あなたはプロ野球選手になれるか。宇宙飛行士になれるか。考古学者になれるか。一線で活躍するアイドルになれるか。
これらの事は、なれないとも言いきれないだろう。可能性としては全くのゼロではない。つまり可能性がある、ということになる。
無限の可能性は、確かに実在すると言える。
しかしここで問題なのはその実現可能性である。目標の実現可能性が著しく低いにも関わらず、無限の可能性などという言葉を盲信した結果として人は苦悩を抱えてしまうという。
わかりやすい例が受験である。例えば偏差値40のAくんが東京大学を目指したとき、確かにAくんの合格が実現する可能性はゼロではないが、かなりの高確率で挫折を味わうことになるだろう。どうして自分の努力が実らなかったのだと、苦悩するだろう。
そうならないために樋口師匠は、自分の可能性ではく不可能性を認めよとおっしゃる。
結局、自分は急に自分以外にはなれない。当てにならぬ可能性などではなく、自分にとって不可能なことを認識し、現状の自分を受け入れろということだと思う。
言い換えれば、身の丈を知るということだ。
今日はあまりにユーモアがなかった故にここまで読んだ人などいてたまるか、と思う。専門は英文学なので日本語がおかしいのはご愛嬌である。最後に、本文は自分なりの解釈であるのでクレームは受け付けていない。
勉強のやる気はどうすれば湧くのか
今週のテーマがやる気に関することらしいので、適当にやる気に関して殴り書きしてみようと思う。
まずやる気とはなにか。
ようは言い換えれば、モチベーションということだろう。何か物事に対して取り組む際の気持ちの持ちようと定義しておく。
やる気を出すのは、容易なことではないことを、私は受験勉強を通して身をもって理解している。
基本的に、何か物事を行う際にやる気に頼るのはあまりお勧めできることではない。なぜなら、やる気とは継続的に湧くことはないからだ。やる気とは太陽光のように尽きることのない資源ではあるが、その効果は長続きせず、しかも太陽光のようにその辺で無料で享受できるものではない。
例えば受験生が志望校のオープンキャンパスに行ったとしよう、受験生はそこでの薔薇色のキャンパスライフに思いを馳せるだろう。個性に富んだ同期や先輩たちとの出会いに胸を踊らせるだろう。学問を追求する自分を想像して少しばかり口角が上がっているに違いない。
ただ、そういったモチベーションというのは長続きしない場合が多いのではないか。少なくとも私はそうだった。せいぜい10分が関の山だった。参考書から漂うオーラに圧倒され、私のやる気はたちまち部屋の外へと退散していった。
人が物事に取り組む際にやる気に頼れないのはわかった。では、私たちはどうすれば良いのか。
私が導き出した解答は2つ。1つは危機感であり、もう1つは自分をがんじがらめに縛り上げるルールである。
前者は想像にかたくないだろう。課題の締切やテストの直前は嫌でも課題を終わらせる。人を動かすのはポジティブなモチベーションより、ネガティブな危機感だと思っている。だから、受験界隈ではセンター試験まであと○○日といったカレンダーが毎年幅を利かせている。
危機感を上手く利用することが大事だ。
後者もまた大事なことだ。何となくサボってしまうような日々が続いているのなら、自分を徹底的に縛り上げるルールが必要だ。
例えばどうしてもゲームやYouTubeを見たくなってやるべき事に手が付かないなら、タスクに取り組んだ時間や量に応じてゲームや動画を見ても良い、というルールを作る。参考書を○ページ、問題を○問解いたら○分はゲームや動画に興じて良い、という風にする。
聡明な読者諸君に置かれては皆々様が自分自身で考えることができるだろうと思うので、他の例は特にあげないこととする。(面倒なだけであることは言うまでもない)
そろそろまとめに入ると、やる気なんてのに頼るのは無意味であるからやめた方がいいんじゃないかというのが私の意見である。この文書は私の独断と偏見に基づいているため、クレームは受け付けていない。予め了承されたし。
日記をはじめました
大学受験生。何を血迷ったか、ブログというものを始めました。
たくさんの人に見て欲しい、というよりかは、誰か1人でも良いから僕の文章を読んで欲しい。という思いから始めます。
正直、継続は苦手です。
自分は趣味が大変多いです。ハマっては飽きての繰り返しだからです。
特にコロナで引き篭っていた期間は、受験勉強の他に、過去にハマった趣味を掘り返していたりしたものです。
どれくらい続くかは未知数ですが、暖かく見守って頂ければ幸いです。
読者の皆様のお役に立つような内容は一切書けないであろう、ということだけは保証させて頂きます。